H.I.Blog

  • ビットコインの話

    このブログにいつ書いたかあるいは書いていないかもわかりませんが、常々言っていたのは人の考える「完璧」ほど、それは複雑になるほど脆く、神にはなれないということです。

    つまり、より具象的な話に落とすとすれば、ビットコインの「全員が徒競走で1位を目指して走っているんだから横槍(不正)を入れて妨害するのは困難だ」という主張は非常に怪しいものがある、ということです。

    人の論理ほど脆弱で一貫していないものはありません。

    自転車が発明された時代も、

    「野蛮」「保険適用外」「不健康」と

    さまざま批判をくらっていましたが、

    自動車が出てきてというのもありながら

    やはりその言説は恥ずかしいものであったと言わざるを得ません。

    AI絵に関する、人間の創造性に係る神話めいた信頼も、いわば傾斜の付けた確立機としてAIをコントロールすることでそれは解決できるでしょう。既にジブリを模倣した画風やさまざまなものをより端的に扱いAIに出力させる技術が発展してきていますしね。

    https://x.com/sou_btc/status/1927163200736264403?s=53&t=HYr1nMBEUGc4jDN8S_azFg

  • 何をすべきか

    とにかく、技術の先端に立てる時代であるし、その付近の先頭に立てる時代だとも思う。

    戦略ゲームの中でどこに優位があり、というのも考えながら他方で執着的なこだわりがないといけないと感じる。

    最新の技術をいかにモジュールとして世界に溶け込ませていくかというのはとても大事だと思う。

    かかる技術は先頭から遅れていても追えていれば充分かもしれない。

    つまりここで言いたいのは、そうでないインフラストラクチャーの話で、例えば常々、AIは手のひらに乗せられたらいいと思っている。根本的に、何かの製品というわけではなくて、とにかく、例えば手のひらに乗せたものを接続する基盤が大切なんだと思う。モジュールにすべきものとそうでないものの選別の上でそれがうまく切り分けられればすごくエコで賢く便利で文化伝統的なアナログなものができる。例えばメガネのフレームの一部にType-Cがさせる場所があって、従来のUSBメモリよりはるかに小さいものをそこにはめると、例えばトニースタークでなくてもトニーのAIと話せたり。一見するとというより人に話すとそれ(移し替えやアップデート)はデジタルで可能というが、それと同等かそれ以上にアナログには執着すべき理由がある。つまりこうだ。AIが作れなくてもそれを支えるインフラなら作れるかもしれない。逆も然りだ。

    ここにベットするために今後を捧げられたら本望かもしれない。それは、次世代のものづくりだ。

  • Googleのメガネへの期待(?)

    Googleは過去にレゴブロックからインスピレーションを得たスマホの開発で頓挫した経験がある。

    その発想はメガネに飛ばすべきだ。

    デジタル(AI・回路)をどこまでアナログ部品として、交換可能に落とし込めるかが勝負だ。

    例えばメガネの耳掛け部分の内側がブロックごと外れるようになっていて、そこにバッテリー、

    反対側には回路、AIパッチ、グラスのレンズも交換さえすれば最新性能の何か(?)が楽しめるとか。とにかく変数とそうでないものをしっかり区別してデジタルのアップデートとアナログのアップデートを両輪に備えた次世代型デバイスが必要だ。

    しかもこれは、彼らに限ったことではない。

    機能自体の核が作れなくても、その器が創造できれば市場をとれる可能性だってある。

    技術の中でクローズド・オープンにする場所を今こそもっと考えるべきだ、デジタルもアナログも。全てはそこから始められる。

  • ハードウェアの時代へ

    ソフトウェアのエンジニアリングは,ある意味もう充分だろうと思う、係るコスト等々を踏まえても、中身さえ入れ替えれば常に最高のパフォーマンスを出せるハードウェアを創造性巧みに作り出せる環境を日本は整えていくべきだろうと思う。

    もっとコンパクトにもっと端的に明快に、あらゆる補助輪として邪魔をせず付加価値として振る舞い続ける外枠が求められているようだ。

  • 絶対にAKB48リバイバル来るやん

    インスタの運用も秀逸ながら、メンバー内での統率が取れているグループ。という印象。

    ブランディングがブレないあたり、全盛期をみんなが理解しているからこそ、継承が成り立ちやすくなっている側面が大きいのかもしれない。

    少し、テレビから遠ざかる期間があったことはAKBとしての新体制構築に良い影響を及ぼしたと思わざるを得ない。AKBをもう一度という雰囲気がすごく感じられる。

    楽曲についても65thシングルの完成度然り、全盛期をしっかり継承しているAKBらしさを感じる。

  • 1人の熱狂から始まる

    どんな世界的なブランドもカルチャーも作品もたった1人の熱狂から始まる。

    お金にならないことにどれだけ夢中になれるだろうか、何かを始めることに対して大人になるとビジネス的な観念が生まれてきてしまうのが多いようだ。

    今の時代、データがものを言う。データを用いてそれは決して熱狂的でないように振る舞い、強かに市場を奪う彼らがいる。

    彼らをみると、ああなれたらと思う人がいる。

    でも、彼らも人知れず熱狂している。

    それが仕事になった当選者がそうでない者にはそう見えている。

    どんな巨大な熱狂も、たった1人の熱狂から生まれる。

    熱狂とはなんだろうか、他者が嫌がるこだわりだろうか、愛情だろうか、努力だろうか、才能の類だろうか、とにかく、資本主義でもなければ社会主義でもない、個人主義でもなければ全体主義でも、リバタリアン?ヒッピー?独裁者?奴隷?犯罪者?怪我人?暴徒?詩人?現実主義者?政治家?

    熱狂とは、なんだろうか。

  • 無知の(無)知

    多くの大学からは高等教育機関としての面影も消えつつある。文壇が流れの中で消えていったように、例えば知識人同士の交流による発言や行動が大衆に与える影響というのもまた現代においてしかし、急速に減っていっているようだ。

    無教養・無学・無思想、とまではいかなくとも、この現代では、知ること知らないことに関わらずSNSでは多分に影響力を持てる可能性がある。また、元来の影響力とは今日の「ポストのバズり」のような超短期的な影響を想定に入れていなかっただろう。もはや「誰が」「どうやって」ではなく、「何を言ったのか」が重視される世の中になった。

    世の中を取り巻く合理主義は、現代に完成しつつある(しかしそれもまた流れていくとは思う)。

    ひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」が爆発的に流行ったのも近頃のことである。

    ここでは、世の中が思う合理主義をエセ合理主義と呼んで話を進めていくことにする。

    エセ合理主義に至る背景としては、過度な情報化社会になったことが原因の一つだと考える。受け取る情報の密度が増えた結果、その取捨選択にいちいち感情を用いるよりも論理を用いて分類することの方が簡便だからである。

    少し本筋から外れるが、私は論理というものが「太さ(強度)、方向、長さ(時間軸)」の3点構成を持つ矢印で表現できると考えている。

    例えば、ポテトチップスを買うか迷う時、

    「明日、顔が浮腫んでしまうかもしれないからやめておこう」

    「10年後には今日食べたくらいで何の影響も出ていないだろう」

    どちらも論理は論理であるが時間軸が異なるだけで最終的な解答が変わってくるという結果になった。

    本筋に戻ろう。さて、果たして。私が言いたいのは「大衆はこれを理解しているのだろうか?」ということである。

    大衆にとって、論理というのが「何か絶対的なもののように」扱われてはいないだろうか。

    絶対の答えがあり、もっと極端にはあらゆることが白黒に別れると思う人もあるいはそうでない問題はならグレーがあるとそれもまた極端にして押し並べて話す人がないだろうか?

    私にはそういう人が多いように感じられる。

    ・意識的な環境との相互作用

    ・無意識的な環境との相互作用

    ・遺伝に裏付けられた能力による吸収と出力の精度、効率

    人は、大まかには以上の要素によってモノを考え言葉にしているように思われる。ここで大切なのは、意識的な環境との相互作用の有無である。

    意識的な環境との相互作用とは言い換えるなら、「学習による歴史観の習得や、集団への所属による相互作用による学習」とできるかもしれない、あるいは他にも多様な意味付けができるだろう。

    書くのが面倒になってきたので、端折ろう。

    現代はこんな風になっているのではなかろうか。

    ①娯楽に溢れ「学習・習得」がなおざりになる

    ②①の状態で物事を理解し、エセ合理主義のもと浅論理的※に断じる・意見する

    (※造語:浅い論理)

    ③ここで用いられた3要素から構成される論理の矢印は「往々にして細く・等閑な方向を向いていて・短い」。

    そして、それにさえ無自覚でしかしそれを無自覚とも思えず、そういう無自覚な集団に無自覚に所属し、同じような納得のできる意見に囲まれながらぬるま湯に浸かり「そっちは熱いぞ」と意見する。実は気付かず茹でガエルになるのはぬるま湯の方だった、さらには意見に釣られてそれら茹でガエルへの仲間入りをしてしまうなんてオチも、あるかもしれないというわけだ。

    (時代が悪いともSNSが悪いとも人が悪いとも言い難いが、そもそも人はそこまで文化や伝統を自由という文脈の中では継承できないものなのかもしれない。)

  • 意識について

    私たちは、ある意味、「動的な傾斜を伴った確率機」であるといえると考えます。

    ここでいう傾斜とは遺伝や環境にあたります。

    環境は常に私たちに短期的、中期的、長期的な影響を与えています。傾斜が変動を続ける、簡単で他領域との繋がりが希薄な質問にはそういう環境による傾斜の変化が如実に反映されやすいと考えます。それはすなわち時間というものが相対的なものでなく私たち自身にとって絶対的なものとして見える要因を作り出します。この世の中に、真に静的な確率器と呼べるものは例えばデジタル上にしか存在することができないかも分かりません。

    そのように考えると、私たちの意識や意思決定プロセスというのは逐次的に動的に変化し続ける「動的な傾斜を伴った確率器」と言って差し支えないように思えてきます。その変化分に私たちは時間的な成長を重ねて理解をすることができるようになるでしょう。これがヒトが時間というものを理解しづらい真の要因であると考えています。

  • Promptpediaを作るにあたって

    https://promptpedia.jp

    ↑今回の議題であるPromptpediaのリンク

    1.インターネット世界の変容

    私たちの世界で、AIによる結果としての変革が進んでいる。

    例えばGoogle検索においてはこんな記事がある。

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    【SEO壊滅】AI検索が、マーケティングの常識を破壊している
    https://npx.me/s/xQ9I8JDg

    ーーーーーーーーーー

    Google検索に、新しく登場したAI Overview。

    記事の中にはこんな記述が目立った。

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    。AI Overviewでオーガニックのトラフィックは18〜64%減少する、とあるSEO専門家は分析している。

    ほかの分析も追随している。

    「AI Overviewで、クリック率(CTR)は34.5%減少する」

    ーーーーーーーーーー

    これは私たちの検索体験が大幅に変わっていることを意味している。また、検索ブラウザ自体にもこんな変化が生まれている。

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    https://x.com/codebypoonam/status/1921230481821233651?s=46&t=HYr1nMBEUGc4jDN8S_azFg

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    以上はFellouという、「利用者=AI+人」に最適化された新しい検索ブラウザの形をChromeと比較して紹介したものだ。

    このツイートの視野外のものとしては、完全AI向けのブラウザも存在するようだ(名前は忘れました)。既存の検索ブラウザでは、グラフィックや広告など、AIによるウェブ検索(Deep Research)にとってノイズとなる要素が多く含まれていたため、検索効率やその精度に悪影響を及ぼしていた。のだが、それらを一切含まないのがそのブラウザであり、効率や精度が飛躍的に向上したというニュアンスであったはず、、である。

    2.何を変えるか

    専門書の時代があった。それからインターネットに情報が増えていくと、やがてWikipediaがインターネット百科事典としてその存在を確立した。しかし、それもまた少しずつ廃れつつあると考える。

    教育界を見てみよう。

    Wikipediaの内容が一般に論文に使えないとされるように、現在は、AIからの文献もまた一般に論文には使えない(出自をはっきりさせるなどやり方はあるかもしれない)ことが多いようだ。

    両者の違いは似て非なるものだ。

    私たちには、AIに対して、

    「正しい情報を効率よく正確に捉える」

    だけでなく、

    「正しいプロセスで正しい実行を遂行させる」

    ことができる。

    かつて「Wikipedia」をもって世界が「集合知」を求めたように、「何か」をもって世界が「集合知行」を求める時代が必ずやってくる。

    そこで、その「何か」を作ることにしたのだ。

    3.制作にあたって

    作るにおいて、いくつかの制約を設けた。

    ーーーーーーーーーー

    ・Wikipediaの面影を踏襲すること

    ・表示や操作がシンプルであること

    ・カテゴライズを考えること

    ーーーーーーーーーー

    などである。

    とりわけ、カテゴライズには苦労があった。

    例えば次のことを想像してみて欲しい。

    ーーーーーーーーーー

    仮定:

    ハルシネーションをプロンプト内で自由制御可能

    実行:

    AIに「取扱説明書」と「小説」の執筆依頼

    ーーーーーーーーーー

    同じプロンプトで同一のハルシネーションレベルが指定できないとなった場合、結果はどうなるだろうか。

    より直感的には次の例もある。

    ーーーーーーーーーー

    鉄棒ができるようになるには

    机上の計算が先か、やってみるのが先か。

    家を建てるには、

    机上の計算が先か、やってみるのが先か。

    ーーーーーーーーーー

    そういう違いがあるのだ。

    しかし、列挙したカテゴライズは実に50個。

    ーーーーーーーーーー

    ・表示や操作がシンプルであること

    ーーーーーーーーーー

    という箇所に反してしまう。致命的である。

    これがなぜ致命的なのか。

    それは、現代人は「待てない」からだ。

    ーーーーーーーーーー

    ・ストレスへの適応前に逃げてしまう

    ・端的で明快、ドラッグlikeなコンテンツを好む

    ・AIはストレス回避と耐性の欠如を促進させる

    ✴︎上記のユーザー(全世代)がターゲット

    ーーーーーーーーーー

    なのだ。あまりにも辛い見方である。

    さらに私は、

    流行とは

    「必ず極地と極地を行ったり来たりするもの」

    だと考えている。

    それは効率という観点においても例外ではない。

    が、例外ではないだけで、株式のグラフが常に右上を目指すように、効率も向上という誘惑からは逃れることができない、揺れ戻しがあってもその基盤は確実にスライドしていくと考えるのだ。

    次に続く、、、かも。

  • 認識論:金銭と金とNFTアートの世界

    「金銭というものに、それ単体に物理的な存在意義があるでしょうか。」

    こういう物言いはとても嫌いです。

    それ単体だけで、修辞疑問として考えを押し付けるように聞こえるからです。

    「金銭そのものに、どれ程の物理的な存在意義があると考えられますか?」

    さて、今日はこんな話から始めてみたいと思います。

    1.金銭(貨幣)の役割と歴史

    金銭、すなわち貨幣には長い歴史があり、最も古い貨幣はメソポタミア文明、紀元前4300年ほどまでさかのぼります。

    最も短絡的に、それだけの歴史が人々に貨幣への信頼を醸成させてきたと表現できるかもしれません。

    何かを譲る時、また譲り受ける時、物々交換では効率が良くありませんね。ですから人々は、取引に際して貨幣というものを用いるようになりました。

    貨幣は「価値の創出と保護(他国とのバランスもこれに含まれます)」によって、現実世界においての「役割」を持つことができるのです。

    2.金について

    現在、1kgのインゴットはこのくらいの値段です。

    1kg=16,769,000円(2025/05/02発表)

    鉄1kgはというと、100円にも満たない価格です。

    鉄1kg=100円未満(38〜50程度)

    「両者の違いはなんだと思いますか?」

    そう聞かれたら私はきっと次のように答えます。

    「希少性と装飾性(華やかさ・煌びやかさ・)だろう。流動性はその下くらいで、案外、重さというのはこの文脈では不適切だろうと思う。それは、金属だからなんらかの形でプラスに働くのかもしれないが間接的なもので実はあまり影響がないと思うから。」

    私の意見を真っ当だとして先に進んでみましょう。特段当たり障りのない回答ですからそこまで問題にもならないと思います。

    先ほど私の口から出た「希少性」というのは、物理的な場合も概念的な場合も人間社会では特別に扱われる場合が多いはずですね。

    「認識の上に成り立つ希少性は、決して、事実の上に成り立つわけではないのです。」

    このことを考えていただきたいと思います。

    3.NFTアートについて

    NFTアートというものがあります。

    それらは所有権を主張できるデジタルなアートとして一時期とても注目されていましたね。

    しかし、一昨年の時点で私には、これが一過性に過ぎないものであることが予想できていました。

    あるいは「時代に対して先行し過ぎた産物だった」という意味で一時的には廃れてしまうことが確かに予想できていました。

    事実、日経新聞 の記事にある通り

    現在のNFT市場の取引高は

    ピーク時の8割減となっています。

    4.認識と希少性、ではその認識とは何であるか

    NFTアートは、それ自体のコピーが作れてしまうので、所有権がその権利のある人に帰属していたとしてもそこに希少性からなる価値がなかなか生まれにくいのです。というよりも、所有権とアート自体との関係性を第三者に認識させる行為が難航していたように思われます。

    また、Bitcoinを筆頭とする仮想通貨に絡められながら、NFTアートがとても先鋭的な形で世の中に出てきてしまったのも不幸であったと思います。

    私は、貨幣より金にその性質が近いNFTアートはその希少性が認識された方がいいわけですが、市場の先導者はこの問題を避けて通ることができないのではないかとみていました。

    つまり、先導者にとって「アートそれ自体はともすればコモディティに近いのにその所有権を入手するために貨幣を注ぐのは、時代的にはナンセンスな行為に思えてしまうのではないか」と考えたからです。

    その希少性やアートそれ自体を他者に認識されるインフラが整わなかったのが個人的には残念でしたが(これの方が大きいかもなぁ)。

    販売機会を損ねたブランドバッグを燃やして、流通させずブランドを守る。そういうハイブランドとしての守り方のできないNFTアートが、その利用インフラさえ整っていない状態でしかもBitcoinの波とバッティングして語られてしまうとなればこんなに不幸なことはありません。

    当然、見立てはその通りになりました。

    「認識の上に成り立つ希少性は、決して、事実の上に成り立つわけではないのです。」

    良いクリエイティブでも、それが世界に広がっていかなければ「存在していない」と言われるのと同じように、認識の上に直接の関係が育まれた時、初めて希少性が価値を持つのです。

    私には、最も当たり前の原則のように思われます。